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原 一樹 元浦和レッズ、京都サンガ他
~「ゴール」で人生を切り開き続けた男の「ユメノアトサキ」~

2007年に清水エスパルスに入団。トータル6つのJクラブに在籍していた期間中に、通算360試合に出場して105点ものゴールを生み出し、昨年末に13年間の現役生活に終止符を打たれて引退。現在は会社を立ち上げてサッカーを通した新たなビジネスへ挑戦されている原一樹さんの「ユメノアトサキ」に迫ります。
ーいまはどのような取り組みをされていますか?
原さん:昨年にサッカー選手を引退して、株式会社S.U.Kという会社を立ち上げました。事業内容はまだまだこれから作り込んでいく段階ですが、サッカー選手として現役時代から大事にしてきた 「喜びを作り、喜びを提供する」という理念は今も変わりません。そして、ビジネスにおいてはこの喜びを周囲の関わっていただいた方々と分かち合えるようにしていきたいと考えています。
ー会社名の由来を教えていただけますか?
原さん:会社名の由来は、自分が過去に在籍していたチームが関係しています。「S」は清水エスパルス、「U」は浦和レッドダイヤモンズ(以下:浦和レッズ)、「K」は京都サンガF.C.(以下:京都サ ンガ)、ギラヴァンツ北九州、カマタマーレ讃岐、ロアッソ熊本、おこしやす京都AC等、自分が在籍してきたチーム(地域)の頭文字を取って会社名を決めました。香川のファンの方からは、讃岐 (S)、うどん(U)、カマタマーレ(K)とおっしゃっていただく方もいましたね(笑)。 それぞれのチームに感謝があり、在籍していたからこそ今の自分があると思っています。会社のエンブレムも在籍させていただいたチームのユニフォームカラーと在籍年数に応じてマークの大きさが異なっています。
ー起業される上で、小さい頃に参加されたサッカー教室から影響を受けた部分があるとお聞きしましたが?
原さん:そうですね。小学校高学年のときにセルジオ越後さんと金田喜稔さんのサッカー教室に参加させていただく機会がありました。とにかくお二人とも上手かったことが印象に残っていて、 大人になってもその当時の同級生とはこのときの体験が話題に挙がってきます。参加した人たちの思い出になり、その後も語り継がれていくような機会を自分が関わることで作っていきたいですね。
ー過去の経験が今のビジネスに繋がっていると思いますが、いつからプロサッカー選手になりたいと意識しはじめましたか?
原さん:僕が小さい頃はJリーグが開幕したばかりで、みんな三浦和良選手のことが好きで、僕自身もプロサッカー選手に対して憧れはありました。ただ、その当時の僕はプロサッカー選手以上 に、高校サッカーの名門高校である市立船橋高校(以下:市船)に在籍されていた北嶋秀朗さんのような選手になりたいと思っていました。小学校6年生のときに観に行った全国高校サッカー選手権大会の決勝が今でも印象的で、そのときの試合を観て「この人になりたい」と思ったことを今 でも覚えています。 その後中学校に進学してからも北嶋さんのようになりたくて、どうすれば市船のサッカー部に入れるのかばかりを考えていました。すると、当時市内でもそれほど強いチームにいた訳ではありませんでしたが、常に試合では点を取る選手として注目されるようになり、市船のセレクションを受けさせていただけることになりました。ただセレクションには受かることが出来ず、それでも諦め切れなかったので、一般入試を受けて入学することになったんです。
ー市船サッカー部での経験も教えていただけますか?
原さん:最初は全く注目されることもなくC〜Dチームにずっと在籍していました。当時はC〜D チームのサッカーで楽しんでしまっていた自分がいて、いつからか選手権に出ること自体も諦めかけていたんです。そんな中でも結果を残していたことが評価されてか3年生からはトップチーム に呼んでいただいて、途中交代で試合に出ては少しずつ点を取り結果を残していきました。そし て高校最後の選手権を迎える頃にはあの北嶋さんも身に付けていた10番のユニフォームを監督から渡されるまでになっていました。あのときは小学校のときに夢見ていたユニフォームを持っ て、泣きながら家に帰りました。本当に嬉しかったですね。
ーその後、具体的にプロを目指し出したきっかけはありますか?
原さん:高校3年生の夏の時点ではまだメンバーにも選ばれていた訳ではなかったので、就職するのか、大学へ進学するのかという話をしていました。その当時は大学でのキャンパスライフに 憧れがあり、渋谷近くの駒澤大学へ進学することを選択しました。そして1年生の頃からも試合に出させていただく機会があり、結果を残していくことで世代別の日本代表に選んでいただきまし た。世代別の日本代表に行くと既に同世代でプロとしてやっている選手もいて、自分の実力で稼いでる姿が単純にカッコ良く見えたのが、プロを具体的に目指し出したきっかけでした。キャンパ スライフを楽しむ暇はありませんでしたね(笑)。
ー実際にプロになってからどのようなことを感じましたか?
原さん:学生の頃はサッカーを楽しむことが中心にありましたが、プロはサッカーを通して稼ぐ仕事であり、多くの応援してくださる方の信頼を得るためにも点を取り続けなければなりません。 ゴールをすることでこれほどまでに喜んでもらえるのかということを実感していました。ただ、プロになりたての頃は自分の感覚で上手くやっていけると過信していたところもあり、先輩や周囲の方のアドバイスに聞く耳を持てずにいたときもありました。
ープロ生活の中で影響を受けた方はいましたか?
原さん:影響を受けた方を挙げ出すとキリがありませんが、特に大切な助言をしていただいたのが浦和レッズ時代の先輩である平川忠亮さんでした。その当時平川さんからは、「お前の能力で後5年はいける。ただ後10年やりたいならもっと考えてやらないといけない。15年やりたいなら監督が考えていることをもっと理解してプレーしないといけない。それに運もないと続けていけない」 と助言をいただいたんです。正直なところ、そのときは何年か先のことがそれほどイメージ出来ていない自分がいて、聞き流してしまっているところもありました。 その後、移籍して在籍していた京都サンガでチーム得点王になりながらもクビになったシーズンがありました。そのときは「何で俺が?」と思うこともありましたが、これがきっかけでその後のサッ カーキャリアでは「何が良くなかったのか?」というように、より日々の生活からプレーまで考え抜 くようになりました。結果的に、京都サンガをクビになるまでのプロ生活7年間のゴールが44点だったところから、その後引退するまでの6年間のほうが身体的な衰えはあるものの61点ゴールをしていました。平川さんのあのときの助言がなければ、ここまでの結果にはなっていなかったと思います。

ープロ生活の経験の中で今に生きていると感じることはありますか?
原さん:当たり前のことかもしれませんが、常に感謝し続けることですね。実は、Jリーガーになって4年目のときに母を亡くしていまして、恥ずかしながらこのときまで親への感謝に気付けていませんでした。生きている間に親孝行のひとつも出来ていませんでしたね。 母の葬儀が執り行われた前後の数日間、その当時は清水エスパルスに所属しており、監督からはお気遣いいただいて少しの間千葉に戻ってもいいと言われていました。ただ、母は自分のことで練習を休むことをきっと嫌う人なので、当時実家の千葉から静岡まで始発に乗って練習に参加 していました。その姿を見ていただいていたからか、その後のFC東京戦でもともとスタートで出るはずだった方が怪我をして、スタメンで起用いただくことになりました。その状況の僕のことを理解して接してくれた監督、チームメイト、関係者の方には本当に感謝しかありません。そして、その試合では人生のベストゴールを決めることが出来ました。 母の死を通して、ようやく周りへの感謝の大切さが身に染みてわかるようになったのだと思いま す。ビジネスにおいても感謝の重要性は変わらないと思いますし、感謝を忘れてしまっては成長が無くなると思っています。
ーもし現役時代に戻るとすれば、やっておけば良かったと思うことはありますか?
原さん:自分自身はサッカー一筋という固い考え方を持ってしまっていましたが、いまのご時世プロサッカー選手をやりながらも、並行して別のキャリア(副業)をするという選択肢があっても良い と思います。そうすればもっと社会との繋がりや時代の流れを現役時代から感じられると思いま す。小さい頃からサッカーを全力でやってきたこと自体は間違いではなかったと思いますが、サッ カー以外のことにも興味を持ってより広い視野を持つことも大切ですね。 ビジネスの世界から見れば、まだまだサッカーだけを切り取ると小さいビジネスで、サッカー選手もいつかは現役を終えて新たなキャリアを歩みます。いつかは引退が来ることを分かっていながらも、そのときの準備に関しては怠っていたのかもしれません。
ー最後に、これから事業としてどんな取り組みをされていくのか教えていただけますか?
原さん:ゴールをすることで人生を切り拓いてきたので、いま考えているビジネスの柱として「ストライカー研究所」というコミュニティを作っていきたいと思っています。サッカーは点を取ることが1 番の醍醐味だと思いますし、それを子どもから大人まで1人でも多くの人に体感してもらいたいと 考えています。 特に今の子どもたちはリフティングやドリブル等のスキルは十分にあると思いますが、それだけではゴールに繋がりません。そのスキルをどの場面でどのように使えば良いのか等の考え方や駆け引きが合わさって初めてゴールに繋がります。ストライカー研究所では、その点を学べる場にしたいと思っていますし、僕自身も研究生001番として一緒になって皆んなと作っていきたいで すね。 またこのビジネスがカタチになっていけば、セカンドキャリアを迎えるJリーガーのモデルのような存在になれると思いますし、そういった意味でもサッカーを通して世の中に貢献していきたいと考えています。
原 一樹HARA KAZUKI
1985年1月5日生まれ。千葉県松戸市出身。
一般入試でサッカーの強豪市立船橋高校へ入学し、3年生時には「10番」を背負い全国制覇。その後駒澤大学を経て清水エスパルスへ入団後、Jリーグ合計6クラブでプレーし、360試合105点という驚異的な得点感覚でJリーグを代表するストライカーに成長。
2021シーズンを最後に現役を引退し、株式会社S.U.Kを設立しスポーツビジネス事業を展開。
